しあわせのかけら

おたくとお片づけと手作り

コンサートに行くということ。

時間というものはいつも並行に流れている。家族との時間も、友だちとの時間も、自分1人の時間も。ひとつの時間を過ごしている間、もうひとつの時間は待ってはくれない。だから、ひとつのことにとらわれているうちに、他の大切なことがこぼれ落ちて行くことに気がつかなかったりする。

そんなことを意識しながらしっかりと毎日を過ごしていきたいなぁと思う2017年です。

 

さて、それはコンサートという非日常的な時間に関しても言えることで、ちょっと応用させて考えてみようかと。

 

コンサートを見に行って、どこに価値を見出し、どんな楽しみ方をするも自由。

ただ、その時間は並行に流れています。

ひとつのところを見ているうちに、別のところでも同じように時が流れているし、誰かと一緒にコンサートに来ている場合は、その人と自分との時間も並行に流れていることになります。

 

コンサートの醍醐味は、やはり「生」だということ。席によっては、DVDなどの映像で見た方が数段メンバーがよく見えるという場合もありますが、遠かれ近かれ、生身のアイドルが目の前で歌って踊ってくれて、同じ時間を共有しているということは特別なこと。

 

ペンライトの海、メンバーが一生懸命考えてくれたであろうセット、マイクを通してではあっても今この瞬間のメンバーの生の声、テレビなんかじゃなくて今ここに彼らがいるという事実、そんな高揚感に包まれる会場、そして、その時間を一緒に過ごしている、自分の隣にいる大切な人。

コンサートの内容そのものから派生して、そんな全てのものを、楽しめるのがコンサートです。

 

グループ全体が好きで、しかもその中に自分の好きの優劣が全くない場合は、こういった全てを純粋に感じ取って楽しめるのだと思います。しかし、いわゆる「担当」や「推し」がいる場合、なかなか難しいことなのではないかと思うのです。もちろん、それでも全体を楽しめるという方もいらっしゃると思うんです。そのような方を否定するつもりは一切ないですし、むしろすごく器用でうらやましいと思います。

 

少し前に物議を醸した「近くを見るか遠くの自担を見るか」問題にもかかわることになるかもしれませんが、

全体の様子や、メインで行われている出来事に目を向けているうちに、自担に流れる時間も確実に過ぎてゆくわけで、

どうしても、いくら遠くにいたとしても、せっかく同じ場にいるのだから見たいに決まっている…。

むしろ、他のメンバーが話しているときのリアクションや、暗闇でフッと次の曲に向けて表情を変える瞬間や、そういう「メインではない瞬間」にこそ、大好きが詰まっていたりしませんか??

 

だからわたしはつい、双眼鏡をわりと長い時間使用してしまいます。

他の、並行に流れている様々な時間に後ろ髪を引かれることもあります。

だから、「目が足りない」が口癖なんですが…。

 

しかし。

先日、横浜アリーナで一緒にコンサートに入った重岡担の友人が、

「スタトロの時、幸せそうに会場を見渡していた重岡くんを見てすごく幸せな気持ちになった。」

と話してくれたのですが、わたしはその時間は必死に双眼鏡でJr.の子を見ていて。友人も、わたしとその幸せを共有しようと思ったけれど一生懸命見てたから…と遠慮したとのことでした。

それを聞いて、わたしもその重岡くんをすごく見たかったと同時に、大切な友人との時間を遮断してしまっていた(もちろん、友人はそのことは十分理解してくれていて、何もないのですが)ことがわたし自身すごく申し訳なく、残念に思いました。

 

「見たい人をしっかり見たい!」という気持ちが先行してしまうと、

本来、どこであっても楽しめるものであるはずなのに、席に強いこだわりが出てきてしまったり、そうではない時に落ち込んでしまったり。

何か大切なものが見えなくなってしまう気がします。

もちろん、いい席に好んで入る人たちが悪いとは思いません。否定も批判もしない。むしろ、ものすごく気持ちはわかるし、わたしもやっぱりアリーナ席に入りたい。スタンドの前列がいい。欲が顔を出す。

 

だけど、コンサートの存在を当たり前だと思うからいけないんだよなって考え直そうと思います。

まず、彼らがちゃんと元気で存在してくれていること。

コンサートを開けるだけのグループであってくれていること。

体調なり、予定なり、自分がコンサートに行ける状況を与えられていること。

一緒に行く大切な人が、元気で隣で笑っていること。

当たり前のように思うから、それが恵まれていることに気がつかない。

ないものにばかり目を向けるのではなくて、あるものに感謝を。

 

ついつい見失って、考え方が狭く狭くなりそうな時は、原点を思い出そうと思います。