しあわせのかけら

おたくとお片づけと手作り

アイドルがくれたもの〜重岡くんが教えてくれたこと

高校時代、コンビニのビスケットサンドアイスと、パックのミルクティーがお気に入りだった。
特に、冬だけ限定で出てた、雪の結晶がプリントされてるキャラメルミルクティー

部活帰りの同級生たちは、友だちと楽しそうにコンビニに寄る。みんなこのビスケットサンドを好んで食べていた。

パックの紅茶は、いわゆる日向属性女の子たちが机に置いて、胸を張って女子高生だと言えるような休み時間を過ごすためのアイテムになる。フルーツが可愛くプリントされてて。

そのパッケージに似合うキラキラした女の子たちが、わたしは苦手だった。
どうしてそんな話題で盛り上がれるのか。
どうしてそんな風に笑えるのか。
どうしてそんなに堂々としていられるのか。
感覚の違いっていうんだろうか、なんか、普通がわからなくて。
みんな、見た目とか、見かけだけの恋愛とか、どうでもいいものにすがりついて、人の本当の気持ちとか、恩とか、身近な幸せとか、そういう大切なことをどんどん蔑ろにしているような気がしてしまって。

なんでこんな人たちと、自分が同じ「女子高生」っていう言葉で片付けられるんだろうと思った。あんな人たちとは一緒にされたくない、自分は自分、違うんだからと思って、テストの点数と学年順位にしか興味を持たないようにしてた。
受験っていう大切なものから目をそらすと、なんか色々と踏み外すような気がして。
目の前の楽しさなんて、ある程度犠牲にしなきゃいけないんだと思ってた。

本当は、その人たちをバカにしてたんじゃない。その逆。もちろん、同じようになりたかったわけじゃないんだけど、なじめない自分がひたすら惨めで、自分が間違ってるのかなぁって思ってた。
あんな風に生きられる資格のない自分まで、ネーミングだけは同じ「女子高生」なんて呼ばれるのが違和感でしかなくて。
全然同じになれないんだから、なんか、呼び名でも差別してほしかった。
自分は可愛くないし、話もうまくないし、人に興味を持たれるような存在じゃないし。
きっとわたしが誰かに勉強を教えることがなくなれば、みんなわたしのことを透明人間のように扱うんだと思った。
今思えば、勉強は、うまくいかない人間関係から逃げるためだったり、自分にしかないものとか自信とかを持つためだったりしたのかもしれない。

どうしようもないくらい、どうしようの繰り返しの日々で、本当にどんな風に生きたらいいのかわからなかった。大学に受かったらこんな感じじゃなくなるのかもわからなくて、せめて毎日電車に揺られながら見る夕日に、”お疲れ”って言ってほしかったし、明日を教えてほしかった。

なんだかわたしは、自分で勝手にラベリングした青春の象徴・パックの紅茶を買うのでさえ、躊躇ってしまってた。
あの子たちと同じものを持つなんてはずかしい。わたしにそんな資格もないくせに。
自分の中にパトロール隊員がいて、彼らが勝手に責めてくるような気がした。
チャラチャラした子たちが、ダッサイくせにうちらと同じもの買ってってバカにしてるような気もした。
インクが足りなくなるほど、自分に間違いの赤ペンばかり入る気がしてた。
だから、可愛いフルーツのパッケージじゃなくて、ミルクティーだったら、なんか許される気がした。
でも、自分だって本当は可愛いものが好きだったし、本当は、ちゃんと女子高生になりたかった。
冬限定の、ちょっと可愛いミルクティー。少しだけ後ろめたさを覚えながら、わたしはひとりで、それを買う。
みんなみたいに、友だちと語り合うアイテムじゃない。ひとりぼっちの帰り道に、ちょっとだけ彩りを添えてくれるもの。

何回あれを買ったんだろう。電車を降りて、最寄りから近所の道を歩いていると、やけに綺麗な冬の星空が広がってて。
冷たいキャラメルミルクティーを手に、今日もうまく紡げながった会話を思い出しては、みんなと同じような話題には惹かれない、女子高生らしく光れない、不器用で人になじめない自分を嘆いた。

すごくいじめられたりとか、すごく大変なことがあったりしたわけじゃない。だから、こんなことで悩むのも贅沢というか、わがままなのかな、本当につらい毎日をがんばっている高校生もいるはずなのにと思ったら泣きたくて泣けなくて。
でも、やっぱり、多数派に押しつぶされそうで消えたくなった夜も何度もあった。
なぜ同じように生きれないんだろうって悩んでは、やっぱりひとりでいいやってめんどうになってしまう。でもやっぱり、誰かと笑いたかった。友だちって、どんなにいいものなんだろうって、何度も憧れてみたりした。

結局、卒業の日になってもそんな自分を卒業なんてできなかった。
でも、自分なりに決めた、自分と闘う方法は、勉強から逃げないことと、不器用なりにもコミュニケーションからも逃げないことで、そんな自分との約束を守れただけでも、まぁまぁかっこいいんじゃないって思うことにした。
志望校合格の報告をしに行った日、もう歩かない母校の廊下を踏みしめながら、自分の3年間に静かにお別れを言った麗らかな春の日を、今でも昨日のように思い出す。

大学生活が始まって、わたしはこの街を離れた。
あの時励ましてくれた近所の夜空はもう近所の夜空ではなくなったし、冬になってもあのキャラメルミルクティーを見ることはなくなった。
でも、新しい土地のコンビニで紅茶のパック見るたびに、あの時の自分を思い出しては、やっぱりチクリと心が痛んだ。トボトボと歩く、制服を着た自分の後ろ姿が浮かんだ。自分で自分の後ろ姿なんて見れないのに。

それからさらに数年経ったいま、わたしにはたくさんの友だちができた。憧れや幻想に終わることはなかった。まさか、アイドルを好きになったことが、自分の人生を変える出会いをたくさん運んできてくれるなんて。
だから、嫌になっても、情けなくても、ダサくても、怖くなっても、逃げたくなった朝がたくさんあったけど、目の前の何からも逃げずに生きてきた自分は、間違っちゃいなかったのかなぁって思えて。
もちろん、学校に行かなかったりだとかそういう選択肢も決して逃げではないし、全然悪いことだとは思わない。そういう方法がいい場合だってたくさんあると思う。
でも、わたしの場合は、わたしにとってわたしの選択が間違っちゃいなかったって思った。

学生時代に限らず、人生は全然間違ってもいいんだと思う。そしてきっと、本当に間違いなんてなくて、間違ったことも、間違っちゃいないのかなぁって。
もちろん、後悔なんてしたらキリがない。でも、ないものねだりやタラレバを振り払って、どんな経験も自分の一部だと思って、今の自分を肯定できることが、過去の自分も救うのかな。

きっと当時は、わたしを含め、誰も悪くはなかったんだと思う。周りは普通に生きていただけ。
みんながチェスの駒で、社会がチェス盤で、チェスのルールに則っていたんだとしたら、きっとわたしはその中に混じってしまった将棋の駒だった。似た動きができたって、異なるルールには馴染めなくて当たり前。

でも、将棋の駒の仲間だっているし、チェスの駒でも、将棋の駒の特性を理解してくれる場合もある。チェスと将棋だけじゃなくて、他にも色んな駒が、チェス盤の中で動いているのかもしれない。今は、そんな風に思うようになった。

もちろん、年齢とともに学んだことも多かったんだと思う。
でも、頑なだったわたしの心を大きく開いてくれたものは、確実に音楽だったと思うし、特別な人生を選びながらも、同じ人間として共に同じ時代を生きてくれているアイドルの存在だったと思うし、自分とつながって、憧れ続けてきた友だちという存在になってくれた、たくさんの人たちだ。

当時のわたしが、友だちと一緒に旅行をしたり、コンサートに入ったりという未来を想像できただろうか。友だちとコンサートのため遠征し、ホテルからコンビニまで歩いたりしてると、いつもそう思う。
躊躇わず、可愛いフルーツのついた紅茶のパックと、ビスケットサンドを手に取って買い、友だちの待つホテルの部屋まで歩きながら、制服姿の高校生のわたしに、おーいと手を振りたくなった。

〜あとがき〜
なんか、生きていくなかで、どうしても運とか縁とかに恵まれなくて諦めなきゃいけないこととか、拾ってもらえない気持ちとか、誰も悪くないけどどうしようもなく飲み込めない現実とか、自分ではどうしようもなくてやるせないこととか… そういう、ものすごく悲劇とかじゃない、でも、じわっと出てくる涙を、グッとこらえないといけないつらさってたくさんあると思う。
なんか、この曲を聴いていると、キラキラ輝いているはずのアイドルがこんな歌詞と曲を作ってすれて、こんな風に歌ってくれてるって思うと、これまでのそんな思いも、これからすることになるそんな思いも、全部綺麗に昇華されるような気がした。
重岡くんってすごい。そして、そんな重岡くんのことを、神ちゃんと濵ちゃんは全身で受け止め愛おしく思うと同時に、2人にもこういう感覚が流れているんだろうなって、コンサートで歌ってくれた姿を思い出しては考える。

※文の中には、重岡くんのエピソードとか、名曲「間違っちゃいない」の歌詞をたくさん引用させていただきました。